Share

第6話

Author: 宮サトリ
「本当に大丈夫よ。昨日の仕事のまとめはできましたか?」

すぐにまた仕事の話に戻ってしまった。大田理優は仕方なく自分が整理した資料を持ってきて、それに加えて彼女にお湯を一杯差し出した。

「もし弥生さんが病院に行きたくないのなら、もっとお湯を飲んでくださいね」

大田理優は当初、霧島弥生自身が雇って来たアシスタントで、普段仕事を真面目にこなしている。しかし、二人は仕事以外でプライベートでの付き合いはなかった。

彼女が自分に対してこんなに気を遣ってくれるとは思わなかった。

霧島弥生は心が温まった。お湯を何口か飲んだ。

先ほどは少し冷えていたが、お湯を飲んだ後、霧島弥生はようやく少し楽になれた。

しかし、大田理優はまだ彼女を心配して見つめていた。

「弥生さん、今日の報告は私が代わりに行きますか?弥生さんはここで少し休んだらどうですか?」

霧島弥生は首を振り、「いいえ、自分でやるよ」

ただちょっと具合が悪いだけで、そんなに甘えるわけにはいかない。

何かあったらすぐに休んで、他の人に代わりに仕事をしてもらうわけにはいかない。

そうすれば、時間が経つにつれて、怠け者になる。

もし今後具合が悪い時には誰かが助けてくれる人がいなかったらどうする?

霧島弥生は手元の書類を整理し、宮崎瑛介のオフィスに向かった。

彼女のオフィスから宮崎瑛介のオフィスまでは少し離れている。普段なら別になんでもないが、今日は具合が悪くて、霧島弥生は少し疲れを感じた。

「失礼します」

「入って」

扉の向こうから低くて冷たい男の声が聞こえ、霧島弥生は扉を押し開けた。

扉を開けると、霧島弥生はオフィスにもう一人がいることに気づいた。

江口奈々だ。

白いドレスが江口奈々の細い腰を見せ、腰まで届く長い髪が柔らかくその脇に垂れている。その時、床までとどく大きい窓からの日光に照らされた彼女は、スッキリとして生き生きとした印象を与えていた。

相手を確認した途端、霧島弥生は体がこわばった。

「弥生、来たわね」

江口奈々はにっこり笑って彼女に向かって歩み寄って、霧島弥生が反応する前に彼女を抱きしめた。

霧島弥生は体がさらに強張り、江口奈々の肩越しに宮崎瑛介の真っ黒な瞳と向き合った。

男は机の脇に寄りかかって、深い目で彼女を見つめていた。何を考えているのかわからない。

霧島弥生が呆然としているうちに、江口奈々は離れていった。

「弥生のことは瑛介くんから聞いてるよ。大変だったでしょう」江口奈々の顔に同情の表情が浮かんだ。「何か手伝えることがあれば、必ず教えてね」

その言葉を聞いて、霧島弥生は一瞬びっくりした。宮崎瑛介から全部聞いた?

しかし、すぐに彼女は理解した。

そうだ、自分と宮崎瑛介の結婚はもともと注目的であり、彼女には隠しきれない。

隠しきれない以上、話す必要がある。

さらに、江口奈々から恩を受けたこともある。

霧島弥生は心の中の苦しみを隠し、青ざめた唇に笑みを浮かべた。

「ありがとう。いつ戻ってきたの?」

「昨日の飛行機で」

昨日?

つまり、彼女が戻った途端、宮崎瑛介は彼女に会いに行ったのだ。

流石、心の奥底にいる女だ。

「そうだ、顔色が悪いわね。どこか具合が悪いの?」江口奈々が突然言った。

それを聞いて、机にもたれてのんびりとしていた宮崎瑛介は、霧島弥生に目を向けた。そして彼女をよく見て、眉をひそめた。

「昨夜の雨のせいか?」

「雨?」江口奈々は困惑した表情を浮かべた。

霧島弥生はため息をつき、説明しようとしたが、宮崎瑛介が冷たく言った。「具合が悪いのになぜ無理をしている?会社は君がいなくても大丈夫だ。帰って休んで」

その言葉を聞いて、江口奈々は無意識に宮崎瑛介を見た。

どうして彼は急に怒ったように見えるのか?

Related chapters

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第7話

    霧島弥生は仕方なく「雨に濡れただけで、大したことないわ」と答えた。そう言って、彼女は昨日の業務報告書を机の上に置いて行った。「これは昨日の業務のまとめを整理したものよ。私は仕事があるから、これで失礼するわ」霧島弥生は江口奈々を見た。江口奈々はすぐに笑顔を浮かべた。霧島弥生が出て行った後、宮崎瑛介は眉を一層顰めた。「瑛介くん?」江口奈々の呼び声に、彼はやっと我に返った。宮崎瑛介のその様子を見て、江口奈々は不思議に思ったが、それでも優しく配慮深く声をかけた。「弥生、調子が良くないようね。彼女は今、瑛介くんの秘書をしているけど、破綻する前は霧島家のお嬢様だったのよ。あまり厳しくしないでね」厳しく扱う?宮崎瑛介は心の中で笑った。あのお嬢さんを厳しく扱えるのか?しかし、彼はそれを言わなかった。ただ、「うん」と応えただけだった。霧島弥生は頭が重いと感じながら、自分のオフィスに戻った。座った途端、思わず机にうつむいた。さらに目眩がした。どれくらい経ったのかわからないが、大田理優の声が聞こえた。「弥生さん、やはり帰って休んだらどうですか」霧島弥生は本当に元気を出せなく、とても苦しくて小さな声で「理優、ちょっとっ横になりたい」と言った。そう言って、霧島弥生は深い眠りの中に落ちた。霧島弥生は夢を見た。夢の中で、彼女は18歳のあの日に戻った。あの日は霧島弥生と宮崎瑛介の成人式だった。両家は成人式を一緒に行った。当時の霧島弥生は、自分が好きな青いドレスを着て、パーマをかけ、ネイルをして、その日に宮崎瑛介に告白しようと思っていた。彼女は長い間宮崎瑛介を探して、彼を小庭園で見つけた。彼女はスカートをつかんで近づこうと思っていたが、宮崎の友達のからかう声を耳にした。「瑛介、もう成人したんだから、好きな女の子がいたら婚約も考えなきゃなあ」「霧島もいいんじゃない。いつも瑛介の後をついて回っているじゃないか」霧島弥生はそれを聞いて、本能的に足を止めて、宮崎瑛介の答えを聞いてみたかった。なにしろ、彼の答えは彼女が次にすることにも大きな影響を与えるだろうから。しかし、宮崎瑛介が答えられる前に、誰かが先に言った。「霧島はだめだ。瑛介は彼女を妹のようにしか見ていないって知っているだろう。瑛介の心には

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第8話

    だが、この件について霧島弥生は詳しく知らなかった。あの時、彼女も川に落ちたらしく、高熱を出し大病を患い、目覚めると以前の多くのことをほとんど忘れてしまい、自分がどのように川に落ちたのかさえ覚えていなかった。同級生の話では、彼女が遊ぶ心が強くて、注意力に欠けていたから水に落ちたそうだ。霧島弥生自身はずっと何かを忘れてしまった気がしていたが、どうしても思い出せなかった。その後も歳月が過ぎて、当時の出来事をはっきりと覚えている者はほとんどいなくなった。宮崎瑛介が命を救った人にこんなに執着するなんて思ってもいなかった。もしあの時、飛び込んだのが自分だったらよかったのに。夢の中の彼女の感情は、今の霧島弥生と融合したかのようだ。心は巨石が圧えられているように重く不快を感じ、頭痛はさらに耐え難い。なぜあの時飛び込んだのは自分ではなかったのだろうか?もし……もし……突然、宮崎瑛介の顔が目の前に現れた。その目は冷たく、無情である。「弥生、子供をおろして」すぐに彼のそばには江口奈々が現れ、彼女は蔓のように宮崎瑛介に依存していた。「弥生、子供をおろさないって、私たちの関係を破壊したいの?」破壊という言葉を聞いて、宮崎瑛介の目はさらに冷たくなり、彼は数歩進み出て霧島弥生の顎をつかんだ。「言う通りにしろ。さもなければ手を出すぞ」彼の手の力はあまりにも強く、霧島弥生の顎が砕け散るほどだった。霧島弥生は抵抗して、突然目が覚めると、全身が冷汗に濡れていた。目に見えるのは、窓の外を後ずさりする道だった。さっきのは……夢だったのか?どうしてそんなにリアルだったんだろう……霧島弥生はため息をついた。「弥生、目が覚めたんだ」優しい声が前から聞こえて、霧島弥生は目を上げた。江口奈々の心配そうな顔が見えた。「よかった、何かあったかと心配してたわ」江口奈々?彼女がなぜここにいる?すぐに霧島弥生は気づいて、彼女のそばに目を向けた。確かに、車を運転していたのは宮崎瑛介で、江口奈々は助手席に座っていた。宮崎瑛介は運転をしながら、彼女が目覚めたのを知り、ただ後ろ鏡を通じて彼女を一瞥した。「目が覚めたのか?まだどこか気分が悪いか?すぐに病院に着くから、医者に診てもらおう」霧島弥生は悪夢で心臓を高鳴らせ、少し落ち着いたはずの

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第9話

    彼女は病院に行くわけにはいかない。病院にいけば、必ずばれてしまう。笑われるかもしれないけれど、彼女は妊娠したことを人に知られたくない。なぜなら彼女は、ほとんど失ってしまった自尊心を守りたいから。霧島弥生は知っている。宮崎瑛介と偽の結婚に同意した日から、彼女の自尊心はもうないことを。今、彼の前で、彼の愛している女の前で、彼女には自尊心が残っているのか?それでも、それでも…霧島弥生は目を伏せた。それでも、彼女は人々に嘲笑われるようなことを全部話すことはできない。宮崎瑛介は彼女の言葉を聞いて、眉を深くひそめ、車の方向を変えて、急に道路脇に止めた。霧島弥生は彼が自分を降ろすつもりだと思い、ドアを開けようとした。カチッ—次の瞬間、車はロックされた。宮崎瑛介はルームミラーを通して、彼女を意味深く見つめていた。「なぜ病院に行かない?」昨夜、雨に打たれた後、彼女は変だった。霧島弥生は冷静に口を開いた。「もし具合が悪くなったら、自分で行くから」その言葉に宮崎瑛介は目を細めた。江口奈々はすぐに言った。「瑛介くん、もしかして私のせいかしら……ここで降りるから、弥生を病院に連れて行ってください。何より彼女の身体の方が大事だから、これ以上遅らせるわけにはいかないわ」そう言うと、江口奈々は宮崎瑛介のほうに体を傾け、ドアのロックのスイッチに手を伸ばそうとした。そして宮崎瑛介が彼女を止め、二人の腕が触れ合ったのを霧島弥生は見ていた。「そんなことない」宮崎瑛介は眉をひそめて霧島弥生を一瞥した。「あなたのせいじゃない」江口奈々は二人の手が重なったあと、目に少し照れた色合いを見せた。霧島弥生はこの光景を静かに見ていた。江口奈々が彼女の視線に気づいて、照れくさそうに目をよそに向けた。「弥生、誤解してごめんね。私のせいで瑛介君と喧嘩をしていたと思ったの。本当にごめんなさい」霧島弥生は淡々と彼女を一瞥した。江口奈々は霧島弥生のことも助けたことがあり、命の恩人とも言える。もしそうでなければ、彼女のことを底意地の悪い人間だと思っていたところだ。しかし、結局のところ、彼女は自分の恩人だった。霧島弥生は彼女に無理やり笑顔を向けた。「大丈夫よ」江口奈々は笑って言った。「病院に行きたくないって、病院が怖いの

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第10話

    霧島弥生は目を伏せて思った。 江口奈々は顔もきれいで、人としても優れている。 最も重要なのは、彼女が宮崎瑛介の命を救ったことだ。 もし自分が宮崎瑛介だったら、恐らく彼女のことを好きになるだろう。 江口奈々の友達が来たあと、彼女はその友達としばらく話をしていた。その白衣を着ている男は霧島弥生の顔に視線を向け、うなずきながら近づいてきた。 「こんにちは、奈々の友達ですね?石原真一です」 霧島弥生は彼にうなずいた。「こんにちは」 「熱がありますか?」 石原真一は軽く尋ね、手の甲を霧島弥生の額に近づけようとした。 突然の動きに、霧島弥生は本能的に身を引いたが、彼女の反応に石原真一が笑って「ただ温度を測るだけです」と言った。 今度は体温計を取り出した。「まずは体温を測ってみましょう」 霧島弥生は体温計を受け取った。 宮崎瑛介の声が聞こえた。「体温計の使い方は分かるか?」 霧島弥生「……」 霧島弥生は彼の問いに答えなかった。彼女は体温計の使い方を知らないわけではない。 しかし、病気のせいで、少し目眩がしていて、動作が遅くなっていた。 体温計を刺した後、石原真一は少し待つと言った。 江口奈々はそれを見て、石原真一を宮崎瑛介に紹介した。 「瑛介くん、こちらは以前電話で話した真一。医学界では非常に優秀なんだけど、自由が好きだから、帰国してこのクリニックを開いたの。真一、こちらは宮崎瑛介で、私の……」 彼女は一旦話を止めて、照れくさそうに続けた。「私の友達よ」 「友達?」この呼び方に石原真一は眉を動かさせた。そして無意識に霧島弥生の顔をちらっと見た後、再び宮崎瑛介に向けた。「こんにちは、私は石原真一です。よろしくお願いします」 しばらくして、宮崎瑛介は手を上げて、相手と軽く握手を交わした。「宮崎瑛介です」 「知っています」 石原真一は微かに笑みを浮かべ、「よく奈々からあなたのことを聞いていました。彼女はあなたを非常に高く評価しています」 「真一……」江口奈々は何かを突かれたかのようで、頬がすぐにピンク色に変わった。 「なに?違うか?奈々は普段、皆の前でこの人を褒めているじゃないか?」 「いいえ、もう言わないで」 話しているうちに、宮崎瑛介は目を伏せて、霧島弥生を一瞥した。 彼

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第11話

    天邪鬼って? 霧島弥生は一瞬呆れて、すぐに心の中で冷笑した。 「もちろん可愛くて人を理解する力のある奈々には及ばないわ」 そう思って、言葉が思わず出てしまった。 宮崎瑛介は呆れて、霧島弥生も呆然としていた。 彼女は……何を言っているのだろう? 霧島弥生は自分の失言を後悔したとき、顎を宮崎瑛介につかまれて、顔を上げた瞬間に彼の真っ黒な瞳に吸い込まれた。 宮崎瑛介は目をわずかに細めて、視線は鷲のように鋭かった。 「彼女のことで妬いているのか?」 霧島弥生は眉をつりあげて、彼の手を振り払おうと急いでいた。 「何を言っているの?」 しかし手に力が入らず、彼に触れた時、弱々しく力が抜けた感じがした。 この反応に宮崎瑛介は眉をあげて、笑いながら彼女の腕を掴み、「こんな弱い力で?」 「弱くないわよ」 霧島弥生は彼をののしり、自分の手を取り戻そうが、力が入らず、ソファーに倒れた。 そして、起き上がれなくなってしまった。 力がない。 宮崎瑛介はその場に立ち、複雑な目で彼女を見てから、「待ってて」と一言残して、洗面所から水を入れたプラスチックのバケツとタオルを持って戻ってきた。 宮崎瑛介は新しいタオルを冷たい水に浸し、絞って、霧島弥生を拭いてあげた。 「何をしているの?」 タオルが近づくのを見て、霧島弥生は本能的に身を引いた。 宮崎瑛介は彼女の肩をつかみ、眉をひそめて言った。「動くな、熱を下げるためだ」 霧島弥生は断るつもりだったが、タオルが肌に触れると、すぐに冷たい感じが襲って来て、拒否できなかった。 彼女は今、体が熱いので、体温を下げないのは良くない。 どうせ体を冷やすだけ…… そう考えながら、霧島弥生は任せることにした。 宮崎瑛介は彼女の額の汗を拭き、頬も拭いていた。拭いていると、何かを思い出したようで、薄い唇を尖らせて低い声で言った。「霧島弥生、君は本当に私の神様のようだな」 その言葉に霧島弥生は目を驚かせた。 「何?」 宮崎瑛介の瞳は黒い宝石のように奥深い。彼は軽く鼻を鳴らして、「何を装っている?初めて人の体を拭くような仕事をするんだぞ。神様じゃないか?」 そう言うと、宮崎瑛介はもともと彼女の肩にあった手を移動させ、彼女の襟を広げて、白晰な肌を露わにし、濡れ

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第12話

    宮崎瑛介は仕方なく濡れたタオルを彼女に渡した。 「真一はもう具体的な方法を教えてくれてるから、ここは私に任せて。瑛介、弥生をしっかり看病するから、安心して」 そう言われると、宮崎瑛介はそこから動かず、死体のように横たわる霧島弥生を一瞥してうなずいた。「うん」 そう言って、彼は部屋を出て行った。 ドアが閉まった。 部屋の中は静かで、しばらくして江口奈々はタオルを再び洗うと、彼女に近づいた。 「弥生、体を拭いてあげましょうか?」 霧島弥生は本当に力がなく、誰かの助けを必要としているが…… 「看護師を呼んでもらったら?面倒だから」と彼女は提案した。 江口奈々は優しく笑った。「面倒なんかないわ。看護師よりは行き届くわよ。だた、見られるのを気にしないでね」 彼女がこのように言うのなら、霧島弥生はもう何も言えず、唇をゆるめてうなず苦しかなかった。 彼女が同意したのを見て、江口奈々は近づいて、彼女の服のボタンを外しはじめた。 恥ずかしいと思い、霧島弥生は目を閉じた。そのため、江口奈々がボタンを外す際に彼女のことをじっくり見ていたことに気がつかなかった。 江口奈々は唇を噛み、また、彼女の顔色は良くなかった。 もし彼女が見間違えていなければ、宮崎瑛介は濡れたタオルで彼女の体を拭きたいとでも思っていただろう? さらに彼女の襟まで広げた。 ふたりの関係はいつこんなにも親密になったのだろう? もしかして、自分が海外にいる間に何かあったのだろうか? 江口奈々はその美しい眉を軽くひそめて、心の中では少し不安を感じていた。 服を脱がせば分かるが、霧島弥生の体はとても綺麗だ。たとえ横たわっていても、その部分はとても豊かで、肌は純粋な白ではなく、微かなピンク色が混じっていて、みずみずしく見えた。 たとえ女の子であっても、この体は非常に魅力的だと江口奈々はわかった。 彼女は唇を軽く噛み、抑えられなさそうに「実はこの数年間、あなたに感謝しているの」と小声で言った。 霧島弥生は目を閉じていたが、物理的に体を冷やしてもらうのは実に効果的で、液体が体に塗られるととても涼しくて気持ち良かった。 熱はかなり下がった。 彼女は目を開けて、ちょうど江口奈々の美しい瞳に合った。 「私に感謝するって?」 江口奈々は頷い

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第13話

    彼女の話し方は実に直接的だった。 江口奈々の婉曲的な言い回しとは違っていた。 江口奈々は少し困惑して、「そういう意味じゃなかった」と弁解した。 霧島弥生は彼女が言った言葉がどういう意味かを気にする余裕はなかった。 石原真一が彼女に薬を処方して、江口奈々に言った。「薬を飲みたくないようだが、彼女の体調を考えれば飲んだ方がいいでしょう。これは漢方薬で、体に害はないから、数回程飲めばいい」 「はい」と言い、江口奈々は漢方薬を受け取った。 三人はクリニックを出て、宮崎の家に戻った。 宮崎家 車のドアが開くと、霧島弥生は目眩を我慢しながら外に出た。彼女は今はただすぐに部屋に戻って、眠りたいと思った。 しかし車から降りる時、彼女はよろめいて、倒れそうになった。それを見て宮崎瑛介はすぐに手を伸ばして支えた。 彼は眉をひそめて彼女を見つめた。「もうこんな状態になったのに、まだ薬も注射も受けたくないなんて、君は本当に……」 車から降りた江口奈々は二人の手が触れ合ったのを見て、急いで霧島弥生を支えた。 「瑛介くん、私が手伝うから」 江口奈々は霧島弥生を支えて玄関に入った。使用人たちに会うと、彼女はあいさつをした。 使用人たちは皆、江口奈々を見て、不思議な表情をした。 江口奈々が霧島弥生を階上に連れて行った後、彼らはついに我慢できず、集まってささやき始めた。 「見間違いじゃないか?先ほどのあの方は江口さんだったか?」 「江口さんって誰?」 この家に少し長くいる使用人は江口奈々を知っていたが、新しくきた使用人は知らなかった。 「江口奈々は、主人が好きな女だよ。こんなことも知らないなんて」 「主人が好きな女?」その人は目を丸くした。「しかし、主人はもう結婚しているよね?」 「名門の婚姻は、ほとんどは取引なんだ。本当の恋愛関係なんてほとんどない」 話している人は宮崎家に長い間いるのを自慢していて、得意げに話していた。「あんたたちは新しくきたからわからないけど、私はあの時この目で見たんだよ。江口奈々は主人が好きな女で、主人を救った恩人でもある。彼女は以前留学に行っていたけど、主人はずっと彼女を待っていたんだ」 「じゃ、主人はなぜ奥さんと結婚したんだ?」 「それは宮崎家の大奥様が病気になって、主人が結婚

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第14話

    「はい」 部屋を出る前に、江口奈々はもう一度部屋の中を見回した。すると、外のハンガーにカスタマイズされた男性用スーツが掛けてあるのに気がついた。 そのようなスタイルは、宮崎瑛介だけが着るのだろう。 江口奈々は顔色を青ざめ、唇を噛んで、宮崎瑛介の後について無言で出て行った。 その後、霧島弥生は目を開けて、真っ白い天井を見つめながら、戸惑っていた。 子供のことは…どうすればいいのか? 妊娠は他のこととは違っている。 彼のことが好きだという感情はよく隠すことができる。1年、2年、はたまた10年も問題はない。 しかし妊娠は? 出産までに腹が大きくなり、隠すことはできない。 考えれば考えるほど、霧島弥生は頭が痛くなり、次第に昏睡状態に陥った。眠りの中 霧島弥生は自分の襟が誰かに解かれた気がしたと思えば、次に、何か冷たいものが自分の体にかかった。熱い体が気持ち良くなり、不意に声を上げて、無意識に手足を伸ばしてその人の腕を取り掴んだ。 すぐに、彼女は誰かのうなり声と荒い喘ぎ声が聞こえた。後ろ首は、多少乱暴だが優しく引っ掻かれた。そして唇は何か湿ったものに塞がれた。 何かが口の中に入っていく。 霧島弥生はその美しい眉をひそめて、口に入った異物を噛んだ。血の味が口の中に広がると同時に、男の痛みを伴った声が聞こえた。 彼女は押しのけられ、頬を強く引っ掻かれた。「甘やかされたんだな。私を噛むなんてな?」と誰かがそう言ったのがぼんやりと聞こえた。 彼女は痛さを感じ、力なくその手を押しのけ、再び深い眠りについた。 彼女が目覚めると、夜になっていた。 使用人がそばで彼女を見守っており、彼女が目を覚ましたのを見て、喜んで近づいた。 「奥様、目覚めましたか」 使用人は彼女を支えて、手を額に当ててみた。「あら、やっと奥様の熱が下がりましたね」 霧島弥生は目の前の使用人を見ていると、何か断片的な記憶を思い出し、「ずっとここにいて、私の看病をしてくれたの?」と尋ねた。 使用人は目を輝かせて頷いた。 その言葉を聞いて、霧島弥生の目に期待の光が消えた。 彼女はまぶたを下ろした。 その断片的な記憶は、ずっと彼女の看病してくれている人が宮崎瑛介だと思わせていた。 だが、そうではなかった。 霧島弥生が考え

Latest chapter

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第513話

    健司はその場に立ち尽くしたまま、しばらくしてから小声で尋ねた。「社長、本当に退院手続きをするんですか?まだお体のほうは完全に回復していませんよ」その言葉を聞いた途端、瑛介の顔色が一気に険しくなった。「弥生がこんな状態の僕に退院手続きをしろって言ったんだぞ」健司は何度か瞬きをし、それから言った。「いやいや、それは社長ご自身が言ったことじゃないですか。霧島さんはそんなこと、一言も言ってませんよ」「それに、今日もし社長が『どうして僕に食事を持ってくるんだ?』って聞かなかったら、霧島さんは今日、本当の理由を話すつもりはなかったでしょう」話を聞けば聞くほど、瑛介の顔色はどんどん暗くなっていく。「じゃあ、明日は?あさっては?」「社長、僕から言わせてもらうとですね、霧島さんにずっと会いたかったなら、意地になっても、わざわざ自分から話すべきじゃなかったと思いますよ。人って、時には物事をはっきりさせずに曖昧にしておく方がいい時もあるんです」「そもそも、社長が追いかけているのは霧島さんですよね。そんなに何でも明確にしようとしてたら、彼女を追いかけ続けることなんてできないでしょう?」ここ数日で、健司はすっかり瑛介と弥生の微妙な関係に慣れてしまい、こういう話もできるようになっていた。なぜなら、瑛介は彼と弥生の関係について、有益な助言であれば怒らないと分かっていたからだ。案の定、瑛介はしばらく沈黙したまま考え込んだ。健司は、彼が話を聞き入れたと確信し、内心ちょっとした達成感を抱いた。もしかすると、女性との関係に関しては、自分の方が社長より経験豊富なのかもしれない。午後、弥生は約束通り、瑛介が滞在したホテルの下に到着した。到着したものの、彼女は中には入らず、ホテルのエントランスで客用の長椅子に腰掛けて待つことにした。明日飛行機で戻るつもりだったため、荷物はほとんど持っていなかった。二人の子どものことは、一時的に千恵に頼んだ。最近はあまり連絡を取っていなかったが、弥生が助けを求めると、千恵はすぐに引き受け、彼女に自分の用事に専念するよう言ってくれた。それにより、以前のわだかまりも多少解けたように思えた。弥生はスマホを取り出し、時間を確認した。約束の時間より少し早く着いていた。彼女はさらに二分ほど待った

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第512話

    瑛介は眉がをひそめた。「どういうこと?」話がここまで進んだ以上、弥生は隠すつもりもなかった。何日も続いていたことだからだ。彼女は瑛介の前に歩み寄り、静かに言った。「この数日間で、体調はだいぶ良くなったんじゃない?」瑛介は唇を結び、沈黙したまま、彼女が次に何を言い出すかを待っていた。しばらくして、弥生はようやく口を開いた。「おばあちゃんに会いたいの」その言葉を聞いて、瑛介の目が細められた。「それで?」「だから、この数日間君に食事を運んで、手助けをしたのは、おばあちゃんに会わせてほしいから」瑛介は彼女をしばらくじっと見つめたあと、笑い出した。なるほど、確かにあの日、弥生が泣き、洗面所から出てきた後、彼女はまるで別人のように変わっていた。わざわざ見舞いに来て、さらに食事まで作って持って来てくれるなんて。この数日間の彼女の行動に、瑛介は彼女の性格が少し変わったのかと思っていたが、最初から目的があったということか。何かを思い出したように、瑛介は尋ねた。「もしおばあちゃんのことがなかったら、君はこの数日間、食事なんて作らなかっただろう?」弥生は冷静なまま彼を見つめた。「もう食事もできるようになって、体もだいぶ良くなったんだから、そこまで追及する必要はないでしょ」「ふっ」瑛介は冷笑を浮かべた。「君にとって、僕は一体どんな存在なんだ?おばあちゃんに会いたいなら、頼めば良いだろう?僕が断ると思ったのか?」弥生は目を伏せた。「君が断らないという保証がどこにあるの?」当時おばあちゃんが亡くなった時、そばにいることができなかった。でも、何年も経った今なら、せめて墓前に行って、一目見ることくらいは許されるはずだと弥生は考えていた。瑛介は少し苛立っていた。彼女がこの数日間してきたことが、すべて取引のためだったと知ると、胸が締め付けられるように感じた。無駄に期待していた自分が馬鹿みたいだ。そう思うと、瑛介は落胆し、目を閉じた。なるほど、だから毎日やって来ても、一言も多く話してくれなかったわけだ。少し考えたあと、彼は決断した。「退院手続きをしてくれ。午後に連れて行くよ」その言葉を聞いても、弥生はその場から動かなかった。動かない様子を見て、瑛介は目を開き、深く落ち着

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第511話

    この鋭い言葉が、一日中瑛介の心を冷たくさせた。完全に暗くなる頃、ようやく弥生が姿を現した。病室のベッドに座っていた瑛介は、すごく不機嫌だった。弥生が自分の前に座るのを見て、瑛介は低い声で問いかけた。「なんでこんなに遅かったんだ?」それを聞いても、弥生は返事をせず、ただ冷ややかに瑛介を一瞥した後、淡々と言った。「道が混まないとでも思っているの?食事を作るのにも時間がかかるでしょ?」彼女の言葉を聞いて、瑛介は何も言えなくなった。しばらくして、弥生が食べ物を彼に渡すと、瑛介は沈んだ声で言った。「本当は、君が来てくれるだけでいいんだ。食事まで作らなくても......」「私が作りたかったわけではないわ」弥生の冷ややかな言葉に、瑛介の表情がわずかに変わった。「じゃあ、なぜ作った?」しかし弥生はその問いには答えず、ただ立ち上がって片付け始めた。背を向けたまま、まるで背中に目があるかのように彼に言った。「さっさと食べなさい」その言葉を聞き、瑛介は黙って食事を済ませた。片付けを終えた弥生は無表情のまま告げた。「明日また来るわ」そして、瑛介が何かを言う前に、早々と病室を後にした。残された瑛介の顔からは、期待が薄れていくのが見て取れた。傍にいた健司も、弥生がこんなにも淡々と、義務のようにやって来て、また早々と去っていくことに驚いていた。「彼女はなぜこんなことをするんだ?僕の病気のせいか?」瑛介が問いかけても、健司は何も答えられなかった。彼自身も、弥生の真意を掴めずにいたからだ。その後の数日間も、弥生は変わらず食事を運んできた。初めは流動食しか食べられなかった瑛介も、徐々に半固形の食事を口にできるようになった。そのたびに、弥生が作る料理も少しずつ変化していった。彼女が料理に気を配っていることは明らかだった。だが、その一方で、病室での態度は冷淡そのもの。まるで瑛介をただの患者として扱い、自分は決められた業務をこなす看護師であるかのようだった。最初はかすかに期待を抱いていた瑛介も、やがてその希望を捨てた。そして三日が過ぎ、四日目の朝、いつものように弥生が食事を持って来たが、瑛介は手をつけずにじっと座っていた。いつもなら時間が過ぎると弥生は「早く食べて」と促すが、今日は彼の方から先に口を開いた

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第510話

    「行きましょう、僕が案内するから」博紀は弥生に挨拶を済ませた後、皆を連れてその場を離れた。メガネをかけた青年は博紀の後ろをぴったりとついていきながら尋ねた。「香川さん、彼女は本当に社長なんですか?」さっきあれほど明確に説明したのに、また同じことを聞いてくるとは。博紀はベテランらしい観察で、青年の思いを一瞬で見抜いた。「なんだ?君は社長を狙ってたのか?」やはり予想通り、この言葉に青年の顔は一気に真っ赤になった。「そんなことはないです」「ハハハハ!」博紀は声を上げて笑いながら言った。「何を恥ずかしがっているんだ?好きなら求めればいい。俺が知る限り、社長はまだ独身だぞ」青年は一瞬驚いて目を輝かせたが、すぐにしょんぼりとうつむいた。「でも無理です。社長みたいな美人には到底釣り合いません。それに、社長はお金持ちですし......」博紀は彼の肩を軽く叩きながら言った。「おいおい、自分のことをよく分かっているのは感心だな。じゃあ今は仕事を頑張れ。将来成功したら、社長みたいな相手は無理でも、きっと素敵な人が見つかるさ」そんな会話をしながら、一行は歩いて去っていった。新しい会社ということもあり、処理待ちの仕事が山積みだった。昼過ぎになると、博紀が弥生を誘いに来て、近くのレストランで一緒に昼食を取ることになった。食事中、弥生のスマホが軽く振動した。彼女が画面を確認すると、健司からのメッセージだった。「報告です。社長は今日の昼食をちゃんと取られました」報告?ちゃんと取った?この言葉の響きに、弥生は思わず笑みを浮かべた。唇の端を上げながら、彼女は簡潔に返信を送った。「了解」病院では、健司のスマホが「ピン」という着信音を発した。その音に、瑛介はすぐさま目を向けた。「彼女、何て言った?」健司はメッセージを確認し、少し困惑しながら答えた。「返信はありましたけど......短いですね」その言葉に瑛介は手を伸ばした。「見せろ」健司は仕方なくスマホを差し出した。瑛介は弥生からの短い返信を見るなり、眉を深く寄せた。「短いってレベルじゃないな」健司は唇を引き結び、何も言えなかった。瑛介はスマホを投げ返し、不機嫌そうにソファにもたれ込んだ。空気が重くなる中、

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第509話

    病院を出た弥生は、そのまま会社へ向かった。渋滞のため到着が少し遅れてしまったが、昨日会ったあのメガネをかけた青年とまた鉢合わせた。弥生を見つけた青年は、すぐに照れくさそうな笑顔を浮かべ、さらに自分から手を差し出してきた。「こんにちは。どうぞよろしく」弥生は手を伸ばして軽く握手を交わした。「昨日は面接を受けに来たと思っていましたが、まさかもうここで働いていたとは。ところで、どうしてこの小さな会社を選んだんですか?もしかして、宮崎グループが投資することを事前に知っていたんですか?」「事前に?」弥生は軽く笑って答えた。「完全に事前に知っていたわけではないけれど、少なくともあなたよりは早く知ったよ」「それはそうですね。私は求人情報で初めて知りましたし」エレベーター内には他にも数人がいたが、ほとんどが無言で、会話を交わす様子はなかった。メガネの青年以外に弥生が顔見知りと思える人はいなかった。どうやら昨日同じエレベーターに乗っていた他の人たちは、みんな不採用になったらしい。エレベーターが到着し、扉が開くと、弥生はそのまま左側の廊下に進んだ。すると、彼女に続いてメガネの青年や他の人たちもついてきた。しばらく歩いた後、弥生は不思議に思い立ち止まり、振り返って彼らに尋ねた。「なぜ私について来るの?」メガネの青年はメガネを押し上げ、気恥ずかしそうに笑いながら言った。「今日が初出勤で、場所がわからないので、とりあえずついてきました」どうやら、彼らは彼女を社員だと思い込み、一緒にオフィスに行こうとしていたようだ。彼女についていけば仕事場に辿り着けると思ったのだろう。実際、彼女についていけばオフィスには行けるのだが、それは社員用ではなく、彼女個人のオフィスだ。状況を把握した弥生が方向転換し、正しい場所へ案内しようとしたちょうどその時、側廊から博紀が姿を現した。博紀は弥生に気づくと、反射的に声をかけた。「社長、おはようございます」メガネの青年と他の人たちは驚いた。社長?誰が社長?彼らの顔には一様に困惑の表情が浮かんでいた。博紀は弥生に挨拶を終えた後、彼女の後ろにいる人たちに気づき、訝しげに尋ねた。「どうしてこちら側に来ているんですか?オフィスは反対側ですよ」メガネの青年は指で弥生を示

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第508話

    「いいえ、そんなことはないです。ただ、確認したかっただけです」健司は慌てて弁解した。弥生は平然とした様子で病室に入ると、持ってきた保温ポットを机の上に置き、手早く袖をまくり上げた。その後、保温ポットの蓋を開けると、香り高い食べ物の匂いが部屋中に漂った。すでに朝食を済ませていた健司でさえ、その香りに食欲をそそられた。彼は、霧島さんが瑛介のために何かを買ってきたと思っていたが、近づいて中を確認すると、手作りの料理だということに気付いて驚いた。瑛介は彼女の動きを黙って見ていたが、その手慣れた様子に目を細めた。彼女はこれを何百回、何千回もやってきたかのようにスムーズだった。それを見れば見るほど、瑛介の眉間の皺は深くなっていった。弥生は料理を器に盛り、彼の前に差し出した。「食べて。全部流動食だから。お医者さんにも確認したけど、今はこれが一番いいって」数秒の沈黙の後、瑛介は受け取った。その香りはとても良く、最近食欲のなかった瑛介でさえ食べたいと思うほどだった。しかし、彼は弥生を一瞥し、問いかけた。「これ、君が作ったのか?」弥生は問い返した。「そうだけど?」瑛介は唇を引き結び、以前の彼女はこんなことはしなかったことを思い出した。しかし、それは5年前の話だ。彼女にとってこの5年で何が起こったのか、彼には想像もつかなかった。瑛介が器を手に持ったまま動かないので、弥生は促した。「早く食べて。ここに来るまで渋滞で時間を取られたの。これ以上放置したら冷めるわよ」その言葉に瑛介は何も言わず、スプーンを手に取り一口ずつ食べ始めた。弥生は彼に目を向けず、立ち上がって健司の方へ行った。「お医者さんは今日、彼の状態を診たの?」「ええ、診察がありました。社長はちゃんと治療に協力すれば、回復は早いそうです。でも一番大事なのは......」「何が?」「養生が必要だということです。退院した後も、ちゃんと食生活に気をつけないといけない。お酒も控えないと」「それは当然」弥生は確信を持って答えた。「まずはここでしっかり休養させましょう」彼らの会話を聞きながら、瑛介はあっという間に料理を食べ終えた。戻ってきた健司は、その光景を目にして驚愕した。彼は瑛介に長い間仕えてきたが、こんなに食欲旺盛な瑛介を見たのは初めてだ

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第507話

    翌日、弥生は自ら二人の子供を学校に送ることにした。ここ数日は弘次が送迎を担当していたが、昨晩のことを経て、彼女は彼に送迎をやめてもらった。「もし本当に私に考える時間をくれるつもりなら、この間、私の考えに干渉するようなことは何もしないでほしい」弘次は彼女の言葉に納得したのか、それ以降現れることはなかった。彼が現れなくなったことに安堵した弥生は、自ら二人の子供を学校まで送り届けることにした。手には保温ポットを持っており、その理由に興味を示した子供たちは道中でいくつか質問をした。「ママの会社の取引先の人が病気なの。それでママがご飯を届けに行くのよ」ひなのは口が達者で、多くを聞かずにそのまま彼女を褒めた。「ママって本当に優しくて、世界一運のいい男性しかママをお嫁さんにできないよ!」この言葉に、弥生は思わず口元を綻ばせた。この表現は以前、由奈が二人の子供に教えたもので、ひなのはよくこの言葉で弥生を褒めていた。ひなのの得意げな表情が愛らしく、弥生はいつも笑わずにはいられなかった。「さあ、早く中に入って。いい子にしててね、二人でお互いを守り合うのよ。いい?」二人に念を押してから、彼女は子供たちが学校に入るのを見届け、振り返って立ち去った。病院で「社長、まだ朝早いですし、霧島さんが来るには少し時間があります。昨晩ほとんど寝ていないんですから、もう少し休まれてはいかがですか?」「あのう、私が病室の外で待機して、霧島さんが来たらすぐにお知らせしますから。それでどうでしょうか?」健司は、朝早くから椅子に座って弥生を待つ瑛介を見て、根気よく説得を試みていた。しかし、どんなに言葉を尽くしても、瑛介はただ眉をひそめて「うるさい」の一言で片付けてしまった。健司は心の中でため息をついた。彼は黙っているべきだったと後悔しつつ、それ以上は何も言わず静かにすることにした。時間が過ぎるにつれ、瑛介の顔色はますます険しくなり、視線を扉と腕時計の間で行き来させる様子が目立ってきた。「もしかして、彼女は自分を騙したのではないか?本当は来るつもりがないのでは......」彼の内心に疑念が渦巻き始めたが、それでも彼女の約束を信じたい気持ちもあった。瑛介の重苦しい雰囲気に耐えかねた健司は、扉の外を確認しに行くことを提案した。「では

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第506話

    いろいろな面から考えると、彼は間違いなく得難いほど良い相手だと言える。しかし、感情というものは、弥生にとって、どうしても克服できないことだった。彼女は顔を横に向け、彼を見つめながら言った。「ごめんなさい」弘次はじっと彼女を見つめ、しばらくしてから再び穏やかな笑顔を浮かべた。「今日は疲れているんじゃないか?まずは上に行って休んで、何か話があれば数日後に話そう」「弘次......」「子供たちがきっと待ちくたびれているよ。さあ、早く上に行こう」そう言うと、彼は彼女の肩に手を置き、軽く押しながらエレベーターへと連れて行った。そして、フロアボタンを押した後、彼はエレベーターを降りながら笑顔で言った。「上に着いたら、友作にそのまま下に降りてくるように言ってほしい」弥生は眉を少しひそめながら、彼の言葉には答えなかった。エレベーターのドアが閉まりかけたその瞬間、彼女は弘次が微笑んでいるのを見た。「おやすみ」その瞬間、エレベーターのドアが完全に閉まった。弥生が家に戻ると、友作ともう一人のお手伝いさんがリビングで話しているのが見えた。彼女が帰ってきたことに気付くと、二人ともすぐに立ち上がって挨拶をした。弘次が言っていたことを思い出し、弥生は友作に言った。「弘次が下で待っていますよ」「え?今日は来ないんですか?では、行ってきます」友作は特に疑う様子もなく、そう言って彼女に挨拶をしてからエレベーターで下に向かった。彼が去った後、弥生は窓辺に近づき、カーテンを少し開けた。彼女の立ち位置からは、まだ下で待っている弘次の姿が見えた。彼は車のそばに立っており、明るい街灯の下でどこか寂しげだった。彼はそのまま静かに立っていたが、やがて友作が下に来て何か話をした後、一緒に去って行った。帰りは弘次が運転してきた車だったが、帰るときは友作がハンドルを握った。弥生はカーテンを閉じた。「ママ!」背後からひなのの声が聞こえた。「ママ、今日はどこに行ってたの?なんでこんなに遅く帰ってきたの?」その言葉に、弥生は振り返り、腰をかがめて優しく言った。「ママはここ数日ちょっと忙しいから、帰りが遅くなっちゃうかも」二人の子供たちはとても思いやりがあり、それ以上は特に聞き返さなかった。まだ幼いため、こうい

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第505話

    「そういうことはないわ」弥生は思わず否定した。「君が思っているようなことじゃないの。正確に言うと、私は君にふさわしくないと思うの。だから、もう私のために時間を無駄にしないで」その言葉は、弘次に対してお世辞を言っているわけではなかった。彼女は本当にそう思っていた。弘次は本当に素晴らしい人だった。家柄も良く、容姿端麗で、人柄も申し分ない。それに、自分の立場を利用して女性と曖昧な関係を持つようなことは一切しなかった。「ふさわしくないと思うのか?」弘次は軽く笑いながら一歩近づいた。「でも、それが本当にあなたの考えなら、まずは僕に聞くべきじゃないか?僕があなたにふさわしいと思っているなら、あなたにはもう迷う理由はないだろう?」弥生が何も答えないと、弘次はさらに言葉を続けた。「それとも、あなたの迷いは彼にあるのか?もしあなたが帰国しなかったら......」「5年」弥生は遮るように短く言った。弘次は一瞬動揺したように見えた。「5年だって?」「そう、5年だわ。君が私に良くしてくれることは分かっているし、受け入れようともした。でも、やっぱり無理だった」彼女は弘次の瞳を真剣に見つめた。「以前にも言ったはずだけど。私は君の感情に応えることができないから、私に優しくしないでって」弘次はじっと彼女を見つめ、低く言った。「でも、僕にはできない。あなたに優しくしないことも、あなたを見守らないことも、あなたが他の男と一緒にいるのを見過ごすことも」そう言いながら、弘次はさらに一歩近づき、突然彼女の細い腰を引き寄せた。弥生は驚いて、反射的に彼の胸に手を押し当てた。しかし、二人の距離はすでにとても近く、弘次の香りが彼女に届いた。その声は温かさを失い、代わりに独占欲を帯びていた。「分かっているだろう。5年もの間、僕はずっとあなたに良くしてきた。ただ受け入れてくれるなら、これからの人生でもっと良くしてみせる。あなたの言うことは何でも聞く」真剣な愛の告白だったが、その言葉を聞く弥生の眉間はますます深く寄せられた。最後には焦りさえ感じてきた彼女は言った。「君は分かっていない!」弘次はさらに身を寄せる。「何が分かっていないって?なら教えてくれ」「君が私に良くすればするほど、私は罪悪感を感じるの。

Scan code to read on App
DMCA.com Protection Status